プロチーム「ヴィクトリーナ姫路」広報部長・宮﨑さとみさん 須磨ノ浦女子高に入部志望の“後輩”犠牲 「震災知らぬ選手に話さないと」
1995年の阪神・淡路大震災当時、高校バレーの名門・須磨ノ浦女子高(神戸市須磨区、現兵庫大付属須磨ノ浦高)で主将だった宮﨑さとみさん(43)には、忘れられない“後輩”がいる。入部を志しながら、激震に夢を断ち切られた中学3年生だ。宮﨑さんはプロチーム「ヴィクトリーナ姫路」で広報部長を務める。チームの日本人選手は全員が震災後生まれ。今年初めて経験を伝えようと思う。(田中宏樹)
宮﨑さんは神戸市北区の親元を離れ、垂水区の寮で暮らしていた。2段ベッドの上で経験したあの日の揺れは、今も体が覚えている。寮は大きな被害を受けたものの、けがはなく、翌日には兵庫県加古川市にある学校の合宿所へ移った。
しばらくして、監督から聞いた。「春の入部を目指していた中学生が神戸で犠牲になった」。2月の入試に向け、朝5時に起きて勉強していたという女子生徒は、手にボールペンを握ったまま自宅の下敷きとなった。
1月末にチームメートと遺族を訪ねた宮﨑さんは、生徒が憧れた須磨ノ浦女子高のユニホームを手渡した。背番号は「1」。正面にはキャプテンマーク。背中には部員約20人が「私たちのこと応援してね」などと寄せ書きした。受け取った父親は「娘にとっても、これは絶対にうれしい…」と言葉を絞り出した。
この年の夏、同校は全国高校総体に出場。生徒の遺影をベンチに置いて試合に臨んだ。決勝トーナメント1回戦で敗れたが、「ともにバレーをするはずだった仲間。同じチームの一員として一緒に戦っている気持ちだった」と振り返る。
武庫川女子大を卒業後、久光製薬やパイオニアでマネジャーを歴任。2009年、女子日本代表のマネジャーに就き、銅メダルを手にした12年のロンドン五輪や16年のリオデジャネイロ五輪でチームを支えた。
年を追うごとに阪神・淡路を意識する時間は減ったが、毎年1月17日には入部がかなわなかった生徒を思い出す。「多くの人が志半ばで亡くなった。私はやりたいことができているからもっと頑張らないと」。仕事がしんどい時期でも自分を鼓舞した。
今年の17日は、拠点とする同県姫路市のヴィクトリーナ・ウインク体育館で、JT(練習拠点・同県西宮市)との対戦が組まれた。宮崎さんは昨年12月の会議で試合前の黙とうを提案し、受け入れられた。
これまで自らの震災経験を選手に話す機会はなかった。だが、チームに所属する日本人選手19人は全員があの日を知らない世代となり、大半を県外出身者が占める。阪神・淡路と縁遠いメンバーだからこそ「選手に話をしてあげたい。いや、話さないといけないかな」と考えるようになった。
「望む高校でバレーをしたくても、地震で命を落とした生徒がいたことを絶対に忘れないでほしい。好きなバレーができることに感謝しないと」
そんな言葉を伝えたい。